クリスマスとイエス様の誕生
1 イエス様の誕生日?
みなさんご存じのとおり、12月25日はイエス様の誕生を祝うクリスマス(降誕祭)ですが、聖書にはイエス様の誕生日は書かれていないので、あくまでも誕生日ではなく誕生を祝う祭日です。12月25日はユリウス暦の冬至に当たり、4世紀のニケーア公会議において降誕祭の日に定められました。ちなみに、聖母マリアの前に天使ガブリエルが現れた受胎告知の記念日とされる3月25日はユリウス暦の春分に当たります。
2 聖書におけるイエス様の誕生
新約聖書は、イエス様の生涯を記述した4つの福音書と、弟子(使徒)たちの言行録及び信者への手紙(書簡)から構成されています。4福音書のうち最も早く成立したのがマルコ伝(AD70年頃)、次いでルカ伝とマタイ伝(AD80年頃)であり、この3つは多くの部分で内容が重複しており、互いに齟齬・矛盾するところが少なく「共観福音書」と呼ばれます。一方、最後に成立したヨハネ伝は、構成・内容とも共観福音書とは異質な部分が多いと言われています。
福音書のうち、イエス様の誕生について記述されているのは、ルカ伝とマタイ伝です(マルコ伝・ヨハネ伝には記述がありません)。
(1) ルカ伝
ガリラヤ地方のナザレの町の住人・処女マリアの前に、天使ガブリエルが現れ、聖霊により神の子イエスを身ごもったことを告げる(=受胎告知)。やがて、ローマ皇帝アウグストゥスの命令で、シリア総督クィリニウスによって人口調査が行われることになり、マリアと婚約者ヨセフは住民登録のためユダヤ地方のベツレヘムの町へと旅する。ベツレヘムの町でマリアは出産し、宿屋に空き部屋がなかったため、御子は飼い葉桶の中に横たえられた。その後、彼らはガリラヤのナザレに戻った。
(2) マタイ伝
ダビデ王の子孫であるヨセフは、婚約者マリアが妊娠していることを知り、彼女を晒し者にはしたくなかったので、ひそかに去らせようとした。しかし、ヨセフの夢に天使が現れ、マリアは聖霊によって受胎し、やがて男の子を生むことになると告げたので、それを信じた彼はマリアを妻として受け入れた。イエス様はヘロデ王の時代に、ベツレヘムの町で生まれた。そのとき、ヘロデ王のもとに賢者がお祝いにやってきて、星占いによると、ベツレヘムでユダヤの王となる子が生まれたと告げる。ヘロデ王は動揺し、王の地位が脅かされることを恐れて、ベツレヘム近郊の二歳以下の幼児を皆殺しにした。しかし、ヨセフたちは天使のお告げによりエジプトに逃れていたため、無事であった。ヘロデ王の死後、ヨセフたちはエジプトから戻り、ナザレの町に住んだ。
3 考察
(1) イエス様の誕生年
西暦元年はイエス様の誕生年を基準に定められたとされているものの、今日では、実際にはBC7~4年ころに誕生されたと考えられています。その根拠は、ヘロデ王(大王)はBC4年に死亡しているためです。また、アウグストゥスの命令による大規模な人口調査が行われたのはBC4年といわれていることから、ルカ伝とマタイ伝の記述がともに正しいとすれば、イエス様の誕生年はBC4年とするのが有力といえます。
(2) ルカ伝とマタイ伝の記述の疑問点
ルカ伝にはシリア総督クィリニウスの名がありますが、クィリニウスがシリア総督だったのはAD6~9年(「ユダヤ古代誌」フラウィウス・ヨセフスAD95年ころ)なので、この間にイエス様が誕生されたとすれば、ヘロデ王の治世だったというマタイ伝の記述と矛盾します。また、ベツレヘムはエルサレム近郊の町であり、ナザレの町からは百数十キロも離れています。住民登録のためにベツレヘムに行く理由も不明ですし、出産直前の女性が荒野を旅するのは到底不可能に思えます。
マタイ伝では、ヘロデ王はベツレヘム近郊の幼児を虐殺したことになっていますが、他の文献にはそのような記録はなく、歴史的事実とは考えられません。ヘロデ王は猜疑心が強く、妻や叔父や息子たちを次々に処刑した事実があるものの、当時のユダヤ王国はローマの支配下にあり、住民を無差別に虐殺するような無法が許される状況ではありません。実際に、ヘロデ王の後を継いだアルケラオス王は、失政を重ねたため住民からローマに訴えられ、追放されています。
(3) 旧約聖書の記述との関係
ルカ伝・マタイ伝ともに、マリアの夫でありイエス様の養父であるヨセフはダビデ王の直系子孫であり、イエス様はベツレヘムの町でお生まれになったとされています。これは、旧約聖書(イザヤ書やエレミヤ書など)において、救世主(メシア)はダビデ王の子孫から出現すると預言されているためだと考えられます。ベツレヘムはBC1000年頃にダビデ王が生まれたとされる町であり、ユダヤの民にとってはダビデ王を象徴する町なのです。したがって、メシアであるイエス様は、「ベツレヘムで生まれなければならなかった」のです。
また、創世記においてユダヤの大飢饉を救った英雄である「ヤコブの子ヨセフ」は、エジプトの宰相であったことから、養父ヨセフ(その父の名もヤコブでした)が「ヤコブの子ヨセフ」と同じく神に祝福された人物であったことを示すために、彼が生まれたばかりのイエス様を連れてエジプトに行ったというエピソードが必要でした。その理由付けのために、「ヘロデ王は幼児殺しをしなければならなかった」と考えられます。
このように、福音書の記述の多くは、イエス様が神の子でありメシアである証拠として、旧約聖書の様々な預言やエピソードと整合する形になっているため、正しく理解するためには旧約聖書の知識が必要になります。
(4) 歴史上の人物である「ナザレのイエス」はどのように誕生したか
新約聖書の記述上、イエス様は一貫して「ナザレのイエス」と呼ばれており、弟子を引き連れた布教活動(最晩年の3年程度)を始めるまでの間、ナザレの町で育ったことは間違いありません。このことは、新約聖書に採用されなかった外典(20世紀に再発見されたトマスによる福音書など)や死海文書でも裏付けられています。
ルカ伝とマタイ伝の記述から、天使の出現や旧約聖書の預言と整合を取るための部分を除けば、「ナザレのイエス」の誕生の経緯は以下のとおりになります。
「ナザレの住人マリアは、婚約者ヨセフとの結婚前に妊娠した。臨月になったマリアは、ヨセフとともに町から離れ、人家ではない場所(家畜小屋又は洞窟)で男の子を出産した。その後、ヨセフたちはナザレの町に戻り、そこで暮らした。」
では、なぜヨセフとマリアは町を離れ、隠れるようにして出産しなければならなかったのでしょうか。その理由は明白です。
ユダヤでは、結婚外の性行為は禁忌とされており、その戒律を破った女は晒し者となり、死ぬまで石を投げられる「石打ちの刑」に処せられました。マタイ伝の記述にあるとおり、心優しいヨセフはマリアが石打ちの刑にされることが忍びなく、彼女を連れて町から逃げたのではないでしょうか。やがて、マリアは人知れず出産し、ほとぼりが冷めてからナザレの町に戻ったのではないでしょうか。 そして、ナザレの住人たちはことの真相を知りつつ、ヨセフ一家を受け入れたのでしょう。少年イエスは成長後に周囲から出生の経緯を知らされ、自らが神の子である自覚につながったのではないでしょうか。
そう考えると、なぜイエス様が戒律の盲目的遵守を主張するパリサイ人に批判的であったのか、なぜ姦淫の罪を犯した女を助けた(ヨハネ伝8-3~11「罪のない者だけが石を投げなさい」)のか、その理由がよくわかるのです。
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現実的な解釈をすると、母親の罪を隠す為の処女受胎であり神の子イエスな訳ですが、まぁ…サンタなんて本当は居ないんだよ以上の問題発言なので、そこは穏便に。
コメントありがとう。
この話題は二千年間、さんざん議論されてきた話なので、今さら感はありますね。
ただ、聖書をもとに論じる以上、福音書の記述は(互いに矛盾する内容でない限り)真実であるとして話を進める必要があると思うので、聖母はあくまで処女にして受胎のであり、イエス様は神の子であるというところは否定できないと思っています。
そこは聖書自体をどう解釈するかの話で、キリスト教徒の目線で書かれた歴史の一端が書かれた書物として考えた場合を「現実的」としました。
例えばキリストの復活も、そりゃカルトの教祖が死んだら神格化して祀り上げないと教団解散になるし、残された連中は運営上そういう事にするわ…みたいな。
なので神学者や、そこまで行かなくともキリスト教徒とは相反する見方であるので、彼らの前でそんな事を言うつもりもありません。
もちろん、そのあたりの機微は理解しています。
キリスト教史をシニカルにみれば、正典とされる4福音書は、何度も行われた公会議でローマカトリックに都合のよい教義を正統とし、それに合った内容の福音書を採用した結果、現在の形になったものであり、異端として排斥された宗派(たとえばグノーシス派やネストリウス派)が重要視していた福音書の中には、奇蹟の一部を否定したり、イエス様の人間性について言及したものもあります。
とはいえ、「歴史上のイエスという人物はどのような人物だったのか」を考えることさえ、多くのキリスト教徒にとっては冒涜に当たるということも事実なので、考えを文章に表す際には細心の注意が必要ですね。